OM-2稽古場日誌
OM-2の稽古場の様子を色々な視点から伝えていきます。
浜岡原発の地元である御前崎市長選は推進派の市長が当選。
結局、再稼働に賛成するのは、「一般市民の自分の金儲けを優先」する行為なのだ。
政治家や企業体だけではなく、個人も同じなのである。
金儲けを優先しない生き方を個人も模索しようとしていかない限り、人間は「資本(原発推進にも)」に負け続ける。
日本人は「3.11以降、変わった」と言うけれど、果たして何が変わったのだろうか。
まさか原発だけを止めればいいと思っているわけではないだろう。
それならば、金儲け優先の生き方が変わったのだろうか。
演劇の世界にもはびこる、ポピュリズムに走る心境が変わったというのか。
変わったというなら、それまでも、反原発を叫んできた「日本共産党」や「社民党」の支持率が上がって、第一党にでもなるのだろうか。
それとも、小さな政府を掲げる「みんなの党」の支持率が上がるのだろうか。
政治を真剣に考えるようになったのだろうか。
いいや、本当は何も変わっていない。
「変わった」と口に出して言うことで、自分の正義感をかざしているに過ぎない。
結局、再稼働に賛成するのは、「一般市民の自分の金儲けを優先」する行為なのだ。
政治家や企業体だけではなく、個人も同じなのである。
金儲けを優先しない生き方を個人も模索しようとしていかない限り、人間は「資本(原発推進にも)」に負け続ける。
日本人は「3.11以降、変わった」と言うけれど、果たして何が変わったのだろうか。
まさか原発だけを止めればいいと思っているわけではないだろう。
それならば、金儲け優先の生き方が変わったのだろうか。
演劇の世界にもはびこる、ポピュリズムに走る心境が変わったというのか。
変わったというなら、それまでも、反原発を叫んできた「日本共産党」や「社民党」の支持率が上がって、第一党にでもなるのだろうか。
それとも、小さな政府を掲げる「みんなの党」の支持率が上がるのだろうか。
政治を真剣に考えるようになったのだろうか。
いいや、本当は何も変わっていない。
「変わった」と口に出して言うことで、自分の正義感をかざしているに過ぎない。
森下スタジオにて開催中のアノニマス舞踏会9に参加しました。
はじめは、1日だけの参加のつもりがなぜか3回も出る事になりまして。
それぞれ別の事をして欲しいとの、お題もいただき、即興で臨むことに。
断れば良かった…。私にゃ無理じゃ…。と、何度も思いましたが、
終わってみると、それぞれ反省したり変更したりしながら回を重ねる面白さもあったなぁと、機会をいただいた事に感謝感謝です。
3日間、出演する他のメンバーも違うので、出会いと発見もあったように思います。
いつも一緒にいるメンバーではないから、
人の前に立つという事への向き合い方がこんなにも違うのか、という驚きもあり。
自分はどうなのか?という事について
、言葉で伝えられない情けなさを、感じ。
(今に始まったことではないという自覚は有り)
舞台という場所で、人の前に立ち、向かい合うという事を、改めて考えさせられました。
制作的な事も含めて。
今まで公演をするにあたって、当たり前と思って甘えていた事がたくさんあったんだなぁーーーー。と痛感。
宣伝では、当たり前のようにチラシやWebサイトを準備したり。
会場では、スタッフさんが照明や音響を仕込んでくれる。
舞台監督さんが公演までの進行を組み立てて仕切ってくれる。
特に本番前は、出演者は舞台に立つ事に集中させてもらえる。
すごく恵まれた環境だったんだなぁ…。
舞台を作り上げていくにあたって、作品の中身だけではなく、
公演が開催されるまでに必要な事を、ひとつづつ自分で考え直していかなくては。
と、心から思うのでありました。
(丹生谷)
はじめは、1日だけの参加のつもりがなぜか3回も出る事になりまして。
それぞれ別の事をして欲しいとの、お題もいただき、即興で臨むことに。
断れば良かった…。私にゃ無理じゃ…。と、何度も思いましたが、
終わってみると、それぞれ反省したり変更したりしながら回を重ねる面白さもあったなぁと、機会をいただいた事に感謝感謝です。
3日間、出演する他のメンバーも違うので、出会いと発見もあったように思います。
いつも一緒にいるメンバーではないから、
人の前に立つという事への向き合い方がこんなにも違うのか、という驚きもあり。
自分はどうなのか?という事について
、言葉で伝えられない情けなさを、感じ。
(今に始まったことではないという自覚は有り)
舞台という場所で、人の前に立ち、向かい合うという事を、改めて考えさせられました。
制作的な事も含めて。
今まで公演をするにあたって、当たり前と思って甘えていた事がたくさんあったんだなぁーーーー。と痛感。
宣伝では、当たり前のようにチラシやWebサイトを準備したり。
会場では、スタッフさんが照明や音響を仕込んでくれる。
舞台監督さんが公演までの進行を組み立てて仕切ってくれる。
特に本番前は、出演者は舞台に立つ事に集中させてもらえる。
すごく恵まれた環境だったんだなぁ…。
舞台を作り上げていくにあたって、作品の中身だけではなく、
公演が開催されるまでに必要な事を、ひとつづつ自分で考え直していかなくては。
と、心から思うのでありました。
(丹生谷)
大飯原発再稼働について、いくら「安全」と言われても、その論理は既に崩れてい
るのだからそれは理由にならない。
再稼働するなら「福島のような危険性はあるがそれでも稼働する」理由を述べる必要がある。電力の安定供給というのはこれまでの騙しの論理だ。どこかの既得権益のためと正直に言えばいい。
「原発を再稼働しなければ電力不足」というけれど、それは本当なんだろうか。
そういった情報自体が正しいのか疑わしいのだ。嘘だらけのこれまでの原発関連の情報。
僕たちは何を信じればいいのか分からなくなっているのだ。
劇場の開場時の必要のない明るさも、法律によって細かく決まっている。それ自体は小さい電力量だが、街の明かり全体となれば別だ。そういった法律を変えようとはしないで、電力不足を脅しのように使うのはどうしてなのか。
コンビニやデパート、空港や駅などの明るさも法律で決まっているのだろう。あんなに明るくすることはない。明るさの基準を最低限のものにすればいいのだ。
ポーランドのグダンスクに行った時の街の明るさは、きっと東京の街の1/10くらいの明るさしかなかっただろう。非常に暗くて危険という人もいるだろう。だが、そのオレンジの明かりは陰影が際立ち、なんとエキゾチックで美しいのだろうと思った。
僕たちは東京の明るさに慣れてしまっていて、暗さの美しさを感じ取ることができなくなっているのだ。
サマータイムも導入してみればいい。
クールビズも徹底的に行えばいい。
発送電分離もやってみるがいい。
マンションのロビーや街の看板の明るさも節電を呼びかければいい。
電車やバス内の冷房も効かせ過ぎだろう。
深夜の電気料を下げてみればいい。そうすることで昼の電気量を減らすことができる。働く時間を夜に変えることができるからだ。
国がやってみることはいくらでもある。
そういったことを何ひとつやらないで、「電力不足」と言われても信じることができないのは言うまでもない。
るのだからそれは理由にならない。
再稼働するなら「福島のような危険性はあるがそれでも稼働する」理由を述べる必要がある。電力の安定供給というのはこれまでの騙しの論理だ。どこかの既得権益のためと正直に言えばいい。
「原発を再稼働しなければ電力不足」というけれど、それは本当なんだろうか。
そういった情報自体が正しいのか疑わしいのだ。嘘だらけのこれまでの原発関連の情報。
僕たちは何を信じればいいのか分からなくなっているのだ。
劇場の開場時の必要のない明るさも、法律によって細かく決まっている。それ自体は小さい電力量だが、街の明かり全体となれば別だ。そういった法律を変えようとはしないで、電力不足を脅しのように使うのはどうしてなのか。
コンビニやデパート、空港や駅などの明るさも法律で決まっているのだろう。あんなに明るくすることはない。明るさの基準を最低限のものにすればいいのだ。
ポーランドのグダンスクに行った時の街の明るさは、きっと東京の街の1/10くらいの明るさしかなかっただろう。非常に暗くて危険という人もいるだろう。だが、そのオレンジの明かりは陰影が際立ち、なんとエキゾチックで美しいのだろうと思った。
僕たちは東京の明るさに慣れてしまっていて、暗さの美しさを感じ取ることができなくなっているのだ。
サマータイムも導入してみればいい。
クールビズも徹底的に行えばいい。
発送電分離もやってみるがいい。
マンションのロビーや街の看板の明るさも節電を呼びかければいい。
電車やバス内の冷房も効かせ過ぎだろう。
深夜の電気料を下げてみればいい。そうすることで昼の電気量を減らすことができる。働く時間を夜に変えることができるからだ。
国がやってみることはいくらでもある。
そういったことを何ひとつやらないで、「電力不足」と言われても信じることができないのは言うまでもない。
教育とは多様な考え方や思想があることを伝えるのが基本だ。
君が代を歌う人もいて歌わない人がいる。
それがどういうことなのかと考えさせることが教育である。
歌わない人を処罰するのは、生徒に考えることをさせないという押し付けの行為である。
また、ひとつの考えを押し付けようとするものである。
大阪市のやろうとすることは、多様な思想や考えの中から自由に選択していくこと、または新たな考えを創造していくことを止めさせようとするものでしかない。
これは芸術家が新たなものを創造しようとするあり方を阻止しようとする行為と根底は同じである。
君が代斉唱時に強制的に起立させられることと、戦前、歌わずに非国民や国賊扱いされたことどこが違うのだろうか。
それが国民を戦争に駆り立て、向かわせたのは言うまでもない。
公務員は、人間としての権利を奪われ、市長などの奴隷であるべきなのか。
人間の個という存在をどう考えているのだろうか。
君が代を歌う人もいて歌わない人がいる。
それがどういうことなのかと考えさせることが教育である。
歌わない人を処罰するのは、生徒に考えることをさせないという押し付けの行為である。
また、ひとつの考えを押し付けようとするものである。
大阪市のやろうとすることは、多様な思想や考えの中から自由に選択していくこと、または新たな考えを創造していくことを止めさせようとするものでしかない。
これは芸術家が新たなものを創造しようとするあり方を阻止しようとする行為と根底は同じである。
君が代斉唱時に強制的に起立させられることと、戦前、歌わずに非国民や国賊扱いされたことどこが違うのだろうか。
それが国民を戦争に駆り立て、向かわせたのは言うまでもない。
公務員は、人間としての権利を奪われ、市長などの奴隷であるべきなのか。
人間の個という存在をどう考えているのだろうか。
「一方向」当日パンレットより
真壁茂夫(OM−2演出家)
モノの考え方や捉え方など、あらゆるものが「資本」を中心としたあり方に向かっている現代。芸術さえ商品として流通することを当然とされ、芸術家は作品を商品として生み出そうともがく。商品として価値がなければ芸術としても価値がないといった有様である。芸術家の仕事は金銭を得るための手段ではない。もちろん少数派として「資本」と無関係に活動する人もいる。だが、その少数派の人たちも、その無関係といった「場所」で有名になることを目指しているのではないか。つまり、有名になり商品として流通することに反対はすれども、その反対する活動の中で「有名」になることを目指している。有名になるとは、自分の活動をしやすくさせると同時に、他人の上に立つことを前提とする。つまり自分が他人より優位に立とうとすることを目的とし、他人を見下そうとする視点を拡大していくということである。その「優位」を拡大させることが、競争を促し、「資本」を跋扈させる大きな要因となっているのである。
芸術家の中にも売れなければ価値がないと思っている人が大勢いる。そしてそれを、目指しているのがほとんどであろう。だがそうしたエセ芸術家たちは、何をしたいのだろう。職業として食べていけるようになることで満足するとでも言うのだろうか。何のために芸術の道に入ってきたのだろうか。人間本来の芸術を行おうとしているのだろうか。
芸術とは金銭を得るためのものでもないし、他人より優位に立つことを目指すものでもない。「人間とは何なのか」、その命題に応えるために行為するものではないのか。ひたすらその命題に立ち向かえばいいのである。だが、その命題に立ち向かおうとするときに「資本」はあらゆる手段を使って誘惑し、邪魔をするのである。人間の欲望を刺激し、身体中にその優位性を求めるように仕向け、有名になることが目的であるといった考えを植え付け、何が本質であるのかを見せまいとする。社会全体を「資本」の方向に向かわせ、あたかもその方向が正しいかのように見せるのである。
そして「資本」は、立ち向かおうとする者を孤立させる。
芸術家は孤立し、その孤独と闘い続けなければならない。
その孤独に耐えられなくなってしまう時には芸術家ではなくなる。
またその孤独を感じなければ、その人は芸術家ではない。
何も考えなければ「資本」の言いなりになるのは当たり前のことである。自分の人格は固有のものであると思っていても、何が固有なのかを言うことはできないし、言ったところで他人とは違う自分を描いた思い込みでしかない場合がほとんどである。
現代人は、頭で理解することを自分であると錯覚する。だが本当は、その理解も肉体や心などでさえ、すべてが「資本」に操られてしまっている。「資本」が人間の人格を含めたすべてを飲み込み、蝕んでいるのである。
芸術とは「資本」に抗おうとし、「資本」を形成していく構造を見出すことである。つまり、「資本」を跋扈させる基は自分の身体の中にあることを知り、その蝕まれた身体と闘い続ける(「資本」という価値や流れを自分から排除していく)中で、人間本来のありようを探求することにある。そしてその人間本来のありようを探求することこそが芸術であり、同時に現代の人間がまっとうに生きようとすることなのである。
人間の本来のありようとは何なのか。あるべき人間の身体とはどういうものなのか。それを探る試みこそが演劇行為ではないか。そのために既存の約束事や決まり事、常識、プライドなどを捨てていく。捨てていくことで見えてくる身体を軸に何かを創造していく。そのために演劇の軸におかれている台本や演技などの価値も捨ててしまう。捨ててしまったら何から始めていいか分からないかもしれないが、その淵で「考え」始める。
台本とは何なのか。
言葉とは何なのか。
演技とは何なのか。
なぜ、俳優は客席の方を向くのか。
なぜ、大げさな身振りをするのか。
演劇の本質とは何なのか。
自分とは何なのか。
人間とは何なのか。
それらを探っていく作業を試み続ける。
この作品は、その抗う作業を試み続けても、「資本」の流れという『一方向』に向かってしまう人間の闘いを可視化するものである。そこには苦悩や疑問、僅かな楽しみ、悲しみ、虚しさなどが交差するだろう。つまり、まっとうに生きようとする人間の営み(日業的な生活ではない)を舞台化しようとするものである。
真壁茂夫(OM−2演出家)
モノの考え方や捉え方など、あらゆるものが「資本」を中心としたあり方に向かっている現代。芸術さえ商品として流通することを当然とされ、芸術家は作品を商品として生み出そうともがく。商品として価値がなければ芸術としても価値がないといった有様である。芸術家の仕事は金銭を得るための手段ではない。もちろん少数派として「資本」と無関係に活動する人もいる。だが、その少数派の人たちも、その無関係といった「場所」で有名になることを目指しているのではないか。つまり、有名になり商品として流通することに反対はすれども、その反対する活動の中で「有名」になることを目指している。有名になるとは、自分の活動をしやすくさせると同時に、他人の上に立つことを前提とする。つまり自分が他人より優位に立とうとすることを目的とし、他人を見下そうとする視点を拡大していくということである。その「優位」を拡大させることが、競争を促し、「資本」を跋扈させる大きな要因となっているのである。
芸術家の中にも売れなければ価値がないと思っている人が大勢いる。そしてそれを、目指しているのがほとんどであろう。だがそうしたエセ芸術家たちは、何をしたいのだろう。職業として食べていけるようになることで満足するとでも言うのだろうか。何のために芸術の道に入ってきたのだろうか。人間本来の芸術を行おうとしているのだろうか。
芸術とは金銭を得るためのものでもないし、他人より優位に立つことを目指すものでもない。「人間とは何なのか」、その命題に応えるために行為するものではないのか。ひたすらその命題に立ち向かえばいいのである。だが、その命題に立ち向かおうとするときに「資本」はあらゆる手段を使って誘惑し、邪魔をするのである。人間の欲望を刺激し、身体中にその優位性を求めるように仕向け、有名になることが目的であるといった考えを植え付け、何が本質であるのかを見せまいとする。社会全体を「資本」の方向に向かわせ、あたかもその方向が正しいかのように見せるのである。
そして「資本」は、立ち向かおうとする者を孤立させる。
芸術家は孤立し、その孤独と闘い続けなければならない。
その孤独に耐えられなくなってしまう時には芸術家ではなくなる。
またその孤独を感じなければ、その人は芸術家ではない。
何も考えなければ「資本」の言いなりになるのは当たり前のことである。自分の人格は固有のものであると思っていても、何が固有なのかを言うことはできないし、言ったところで他人とは違う自分を描いた思い込みでしかない場合がほとんどである。
現代人は、頭で理解することを自分であると錯覚する。だが本当は、その理解も肉体や心などでさえ、すべてが「資本」に操られてしまっている。「資本」が人間の人格を含めたすべてを飲み込み、蝕んでいるのである。
芸術とは「資本」に抗おうとし、「資本」を形成していく構造を見出すことである。つまり、「資本」を跋扈させる基は自分の身体の中にあることを知り、その蝕まれた身体と闘い続ける(「資本」という価値や流れを自分から排除していく)中で、人間本来のありようを探求することにある。そしてその人間本来のありようを探求することこそが芸術であり、同時に現代の人間がまっとうに生きようとすることなのである。
人間の本来のありようとは何なのか。あるべき人間の身体とはどういうものなのか。それを探る試みこそが演劇行為ではないか。そのために既存の約束事や決まり事、常識、プライドなどを捨てていく。捨てていくことで見えてくる身体を軸に何かを創造していく。そのために演劇の軸におかれている台本や演技などの価値も捨ててしまう。捨ててしまったら何から始めていいか分からないかもしれないが、その淵で「考え」始める。
台本とは何なのか。
言葉とは何なのか。
演技とは何なのか。
なぜ、俳優は客席の方を向くのか。
なぜ、大げさな身振りをするのか。
演劇の本質とは何なのか。
自分とは何なのか。
人間とは何なのか。
それらを探っていく作業を試み続ける。
この作品は、その抗う作業を試み続けても、「資本」の流れという『一方向』に向かってしまう人間の闘いを可視化するものである。そこには苦悩や疑問、僅かな楽しみ、悲しみ、虚しさなどが交差するだろう。つまり、まっとうに生きようとする人間の営み(日業的な生活ではない)を舞台化しようとするものである。






